アニメと雑学 第9回:ウマ娘とリアル競走馬「サイボーグ・ミホノブルボン」
なんとも早いもので季節も5月、皐月である。皐月といえば皐月賞。
というわけで今回は、個人的に名作だと思っている2011年JRAのCMにて
『92年、皐月賞。
そのモンスターの名は
ミホノブルボン。
常識は、敵だ。』
のキャッチコピーで皐月賞を飾った「ミホノブルボン」についてである。
競走馬ミホノブルボンは1989年生まれ。牧場にいた頃は非常におっとりした馬で「ゾウみたい」とまで言われたほどだった。
しかし、この馬が後に皐月賞・日本ダービーを無敗で制し、シンボリルドルフ以来の三冠にあと一歩まで迫った名馬となる。
血統的に考えると短距離が得意な馬であるはずなのだが、調教師の「馬はレースで勝たないと生き残れない。であれば、心を鬼にしてでも鍛えに鍛えてレースに勝たせるのが馬のためである」という信念のもとスパルタ調教が行われた。
また内容も「鍛え抜けば、距離の不安を克服できる」という考えによって坂路調教をメインにした厳しいものだったが、ミホノブルボンはデビュー前の3歳なら1本走ればヘロヘロになるような坂路調教を楽々こなし、調教が終わったら何事もなかったかのようにカイ葉をモリモリ食べていたという。その後坂路の本数は2本、3本と増やしても淡々とこなしたという。ここら辺がウマ娘のミホノブルボンのキャラクターにも影響していると考えられる。
そして迎えた4歳初戦、スタートから先頭に立つと4コーナーを回ったところからあれよあれよと後続を突き放し2着に7馬身差をつけての圧勝であった。
初戦の結果を受け、皐月賞は始まる前から決まったようなものだった。スタートで先頭に立つと緩みのないペースを刻み、他馬はついて行くのがやっと。直線では差が開く一方で完勝しまずは1冠。逃げ馬に対する常識を破壊するかのような走りはまさにモンスターだった。
続く日本ダービーでは後ろにぴったりライスシャワーが張り付いていたが、緩まないペースで逃げ続け、直線に入った頃には逆にブルボンとライスシャワー以外の先行馬はみんなばててしまって、直線では独走状態。ライスシャワーとマヤノペトリュースの2着争いを尻目に4馬身差で余裕の勝利を挙げ、、無敗の二冠を達成する。
ちなみにこのダービーでのラップタイム(競馬におけるラップタイムは1ハロン、200m毎のタイムを指す)は次のようになっている。
12.8 - 11.7 - 12.3 - 12.2 - 12.2 - 12.2 - 12.5 - 12.5 - 12.3 - 12.6 - 12.0 - 12.5
他の馬など関係なく1ハロン12秒台ペースで走り続けるという、ミホノブルボンの走りを象徴するようなものであった。
二冠を達成し期待は当然、シンボリルドルフ以来の三冠馬。しかもルドルフ同様無敗であり、朝日杯3歳ステークスも勝っているとなればシンボリルドルフ以上の成績の完璧な成績での三冠が目の前であった。
他馬陣営の思惑などが交錯する中スタートした三冠最後のレース菊花賞は、スタートからハイペースでのレース展開となり、直線で刺客・ライスシャワーが襲いかかる。大観衆の歓声を背に必死に逃げるミホノブルボン。しかし、大観衆の悲鳴に包まれて、先頭でゴール板を駆け抜けたのはライスシャワーであった。不敗の三冠馬誕生の夢は、1馬身1/2の差で潰えたのだった。
もしも、この菊花賞を勝てていれば、シンボリルドルフやディープインパクトでも成し得てなかった2歳GⅠを含む無敗での三冠達成となっていた。(この記録はコントレイルによって2020年初めて達成される)
94年にレースを引退後は種牡馬になり、2012年に種牡馬を引退した後は生まれ故郷の牧場に戻り余生を過ごした。2017年2月22日に老衰で世を去り、28歳の大往生であった。
引退後も会いに来たりプレゼントを送ったりするファンが絶えることはなく、ファンからの贈り物も多すぎるぐらいだったと牧場の代表が語るほど愛された名馬であった。
今回は、夢のルドルフ越えの三冠にまで1馬身と1/2まで迫った名馬「ミホノブルボン」について書いてみた。次はミホノブルボンの三冠を阻んだステイヤー「ライスシャワー」について書こうと思う。
ではまた次回